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8月のみずあび「水上ビル最期の20年間と、その後の豊橋を考える会議 vol.2」のレポート

 愛知県豊橋市の豊橋駅近くにある複合施設「emCAMPUS」で2024年8月3日(土)、8月のみずあび「水上ビル最期の20年間と、その後の豊橋を考える会議 vol.2」が行われました。講師に工学院大学建築学部建築デザイン学科准教授の初田香成さんを迎えました。研究対象である闇市由来のビルについて、各地の事例や築60年以上になるガーブ川水上店舗(沖縄県)の現状などを聞きながら、参加者が水上ビルの価値について意見を交わしました。

 

 

 水上ビルの愛称で親しまれている豊橋市のコンクリートビル群は、東西800㍍にわたり水路の上に建っています。その中核を占める大豊商店街は戦後の闇市をルーツに持ちます。終戦後、駅前で営まれてきた闇市が市内の龍拈寺(新吉町)境内へ移され、そこから店主たちで頑張って土地を買い求め、この駅前に立地しました。

 

 

 大豊商店街が誕生してまもなく60年。コンクリート建築は80年を経過するとトラブルが起こりやすくなるといわれていることから、このイベントでは水上ビルに残された時間を20年と仮定して、ラスト20年の「生き方」を考えていきます。

 

 まずはこの日集まった30人を前に、みずのうえ文化センター実行委員会長で舞台芸術作家の山田晋平さんが、このイベントの趣旨について「2016年に『あいちトリエンナーレ』で会場の一つになったのが水上ビルでした。当時はシャッター商店街だった水上ビルがすごく注目されて、私を含めいろいろな人が空き店舗を借りたことで、今はすごく活気があるエリアになりました。このエリアが20年後に豊橋から消滅してしまったら、まち自体の魅力が見つけにくくなるなと考えました。まだ取り壊しの話が進んでいるわけではありませんが、できるだけ多くのまちの皆さんと、さまざまな有識者の方の意見を聞きながら、このエリアをどうしたらいいのかを考える場として、この会議を企画しました」と説明しました。

 

【講師:初田 香成 HATSUDA Koseiプロフィール】

工学院大学建築学部建築デザイン学科准教授。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了、同専攻助教、プリンストン大学客員研究員などを経て、2018年から現職。専門は都市史、建築史。「時代を後どりして身近な建築・都市空間を読み解く」をテーマに活動し、全国の市場や商店街、闇市跡地の建築について実測も含めた歴史調査を行っている。その一環で近年は那覇のガーブ川水上店舗の実測調査を行うなど、水上に建設された建物に着目している。豊橋の水上ビルを含め、水上に建設されたビルの全国のネットワークを作りたいという。著書に『都市の戦後 雑踏のなかの都市計画と建築』、『都市計画家石川栄耀 都市探求の軌跡』、『盛り場はヤミ市から生まれた』、『危機の都市史 災害・人口減少と都市・建築』など。

 

 

 初田さんは今回、「闇市の誕生と終焉」「全国の闇市由来の水上建築」「水上建築の価値・活用」などについて語りました。まずは、終戦当時の写真、作家の日記などから、どのように闇市が始まったのかを読み解いていきました。

 

 東京で闇市の誕生が一番早かったのは新橋駅前。終戦直後にはもう2〜3人の露店商が広場で品物を並べていました。誕生の様子について、小説家・高見順の日記を引用しながら「なぜそこに闇市場が自ずと形成されていったかというと、当時、外食券食堂があって、そこの前に行列ができていて、行列相手に物を売る闇屋が現れて、そうするとだんだん行列の人以外にも買い手が現れ、売り手も集まってくる。その結果、闇市場ができた。自然発生的に人が集まる場所に市場ができていった様子が書かれている」と紹介しました。

 

 

 戦後の市民生活を支えてきた闇市でしたが、流通が復旧してくると徐々に存在意義を失っていきます。その終焉の理由を「1946年春からの流通・露店営業の取締強化、GHQの命令により露店整備事業が行われたり、戦災復興土地区画整理事業での物理的な撤去などが行われたりした。そうした中で空き店舗が増えたり、非合法な飲み屋ができたり、保険金目当ての火事も起こり、1940年代後半には闇市が衰退していくことになった」と分析しました。

 

 闇市が市民にとってどのような存在だったのかー。漫画「サザエさん」の作中でサザエさんが買い物をしているシーンを示しながら、「闇市は危ない雰囲気もあったと思う。一方で、 こういう風に家族連れや子ども連れがいたり、赤ちゃんを背負ったお母さんが営業していたりする。そういう一般の人でも寄れるような闇市もあったっていうことがよく分かる」と言いました。また、旧満州からの引揚者が現地で覚えた味を闇市で売り、それが今では盛岡のグルメの一つとして定着した「盛岡じゃじゃ麺」など、地域の食文化にも影響を色濃く残しており、「闇市はいろんな意味で文化を生み出すような場所にもなっていた」と伝えました。

 

 その後、「闇市は不法な存在なのか」「闇市の営業者はどのような人たちで、どこに行ったのか?」などについて当時の新聞記事やルポルタージュなどを示しながら解説。「戦争で失業したり、家族を失ったり、 それから復員してきた軍人などが戦後になって急に日本にはたくさん出てきて、どちらかというと資本とかを持たないような人たちが闇市で営業していた様子が分かる。その後、営業してた人たちの多くはやはり流通が回復してくると存在意義を失い、そこで働いている人たちも戦前からの仕事に復帰するなど、徐々に闇市を去っていく人が多かった。 一方で、一部の闇市はその場に残って、実は今も闇市由来の建物が残っている例は結構ある」と話します。

 

 では、どのように闇市由来の建物が残されることになったのか、新宿駅西口にあるビルの事例を挙げながら説明していきます。「元々は今の東京地下鉄の所有地でしたが、政治家に仲介してもらい、闇市の営業者たちが土地の借地契約を結ぶことに成功しました。実際、今でも土地の底地は地下鉄が持っているが、借地して建物を作ったのは元々の闇市の営業者たち。 終戦直後は土地所有者と契約を結ばないで営業し、不法占拠している状態だったが、1950年前後から60年代になるにつれて、徐々に土地所有者と権利の正常化を求めて契約を結んでいく闇市の営業者が現れてくる。単純に不法占拠しているわけではなく、 その背景でちゃんと権利関係を結ぶ努力をしており、今も残っている大多数の建物はそういう権利をきちんと正常化させている」。

 

 

 闇市は、戦時中の強制疎開の跡地や路上、神社の境内、水上、河川敷、橋詰などに多くできました。ここからは闇市由来の水上建築の話になり、北九州市にある旦過市場や数年前に取り壊された北海道小樽市の妙見市場、新潟県新発田市にある公設鮮魚市場などを紹介しました。また、ある学生が調べたところ、国内には少なくとも8つの川の上にある市場や商店街が現存、もしくは近年まで存続しており、過去にあったものを含めるともっと存在したと言います。

 

 

 初田さんが実測調査を行う沖縄県那覇市の「ガーブ川水上店舗」の現状や成り立ちについて、解説がありました。観光客が多く立ち寄る那覇市第一牧志公設市場、その脇にある水上店舗は、川の上に建つコンクリート造りの細長い建物で、第一街区から第四街区で構成されています。戦前のこの一帯は水田がある低湿地で、雨が降るとすぐに河川が氾濫するような、人があまり住めない場所でした。 戦後、この場所に闇市が移設されて市の公設市場が建設されたのをきっかけに急速に発展。そのなかで河岸や川の 上に張り出した屋台や小屋が建てられました。しかし、河川の水害が起きて問題に。営業者たちは商店街組合を結成して建物を造ることを市に訴え、1962年に元々あった木造の水上店舗を取り壊して、琉球政府が地盤を造成しました。その地盤の上に1963年、商店街組合が今の建物を建て、商いを営んできました。誕生から60年の今、国の有形文化財への登録を目指そうとしています。 

 

 もう一つ、河川に沿ってできている建物として神奈川県横浜市野毛の「野毛都橋商店街ビル」を紹介しました。終戦の年、市が桜木町駅の駅前にあった露店を野毛に誘導したことで露店街ができました。1964年の東京オリンピックの開催に合わせ、この界隈の露店商を収容するために横浜市の建築助成公社が建設。現在は、公益社団法人横浜歴史資産調査会がテナントから得た家賃収入を、この建物だけでなくいくつか横浜市内の歴史的建物の保存に当てるという仕組みで運営しています。文化庁が行った戦後建築の全国調査の際には、「露店商収容建築として横浜の戦後復興の歴史を伝える貴重な建物であるとともに、現在でも飲食店街として地域に親しまれている建物であり、多くのメディアにも取り上げれてきました。河川と一体化した弧状の建物は他にあまり例がなく、野毛の特徴的な景観を形成している」と評価されたと言います。

 

 1964年から次々に建造された「水上ビル」、1963年建設の「水上店舗」、1964年に建てられた「野毛都橋商店街ビル」というほぼ同い年の3つの建物ですが、一方で、水面の扱いには大きな違いがあります。水上ビルは市から用水上の使用許可を得て、 水上店舗は河川法の適用を受けない私有水面、都橋商店街は河川敷の上空および道路用地を占用しています。建築物の所有者は水上ビルと水上店舗が区分所有、野毛都橋商店街ビルは横浜市建築助成公社が建設して、公益社団法人横浜歴史資産調査会へ寄贈されました。

 

 

 戦後の復興と共に歩み、営業者と行政の官民連携によりできた貴重な建物の一つである水上建築。「古い建物を使うのは、単に建物だけの話ではなくて地域エリアの再生にも繋がる、そんな時代になってきてるのかなと思っています。人々の暮らしを支えてきた建物というのは、博物館で飾るような文化財としてしまうのではなくて、 周囲の空間へ接続してエリア再生の鍵になることができる。 同時に使い続けることに価値があると思うので、ぜひ壊さずに残せないかということを考えていきたい」と締め括りました。

 

 後半は、大豊協同組合代表理事で建築家の黒野有一郎さんを交えながら会場からの質問に答えていきます。

 

 

 行政関係者からの「闇市から新しい建物に変わっていくときの行政の立ち位置やどんな思いでやっていたのか?」の問いに、初田さんは戦前の名古屋をつくった都市計画家の石川栄耀を紹介。「終戦直後の東京都の建設局長も務めた彼は、盛場や露店が大事だと戦前から言っていました。GHQの命令で戦後の東京で、自分が大事だと言っていた露店を自分が整理しないといけない立場に立たされましたが、実際、彼は露店を整理するけれど、行先は企業に掛け合ってこの場所を使わせてもらったりとか、 最後の仲介にすごい身を砕いていた人」と説明。

 

 

 黒野さんからも補足として、「実は豊橋、岡崎、一宮、瀬戸は、 石川さんが都市計画をやられている。放射線上に道を作って、横に繋がった循環する道を作るっていう、割と理想的な戦後の都市計画像が、豊橋と岡崎、一宮でできており、瀬戸も若干できています。あいちトリエンナーレが開催されている都市は、豊橋、岡崎、この間は一宮で、次は瀬戸なんですね。だから、都市計画が幸いしてまちが面白くなっている可能性はあるなと思っています」と自論を語りました。

 

 また、行政との関わりについて初田さんは、「高度経済成長期ぐらいになると、全国的に追い出す感じになっていく印象はあります。 でも、例えばこの豊橋みたいな例もありますし、地方の自治体によってかなり違う。露店の取り締まりは、国の法律というより、自治体の裁量で決まるところがある。だから博多や呉には露店が今でも残ってるし、甲府も確か80年代ぐらいまで残っていた。自治体の裁量がかなり違っていて、その多様性はむしろどんどん発掘できるんじゃないかと感じています。やっぱり東京が有名なので、どうしても闇市も露店もなくなったと思いがちですが、実はそうじゃない姿みたいなのもあるんじゃないかなと思ってます」と述べました。

 

 続いて、山田さんから「今後、この水上ビルを考えていくときに、行政はどこまで関わってくるのかが少し気になってます。豊橋市とどう付き合っていけばいいのか、指針をいただきたい」と質問。

 

 水上ビルは、毎年4月に 水路上使用許可の申請を豊橋市へ出しています。黒野さんからは、「代表理事をやっていた僕の父親からの伝聞では、水上ビルの許可条件として『まちなかの発展に寄与すること』と言われてるらしいです。なのでまちなかの発展に寄与しないと許可がおりない可能性があります」と、前提条件が示されました。

 

 

 次に初田さんは「震災や火事でなくなってしまった場合は更新されない可能性があります。一方で、市が強制的に断ち切るということはあまりない。そこは、実際の建物の状況を見て声がかかるようなパターンだと思う。これだけ占有して存続してるわけですから、建物と人が元気であれば、 それを断ち切ることは多分、例にないんじゃないかな」と考えを語りました。

 

 また、前回のイベントで話題となった登録文化財になるメリットについては、「指定文化財ではないので補助などは得られないが、少し固定資産税が軽くなるなどのメリットがあるただそれよりは、ニュースインパクトなどの点で大きな意義がある。闇市由来であれば多分ニュースに取り上げられるし、そういう価値あるのかなと思います」と話します。

 

 黒野さんから「水上ビルは闇市からツークッション置いている。何か価値を見出すことができるでしょうか?」と聞かれた初田さんは、完成当時の空撮写真を見ながら「当時ほとんどの建物が木造2階建てだったときに、こういう建物が市にできたのはかなりのインパクトだったと思いますし、そういう意味でも市の発展を象徴するものでもあったのではないでしょうか」と評価しました。

 

 最後は、「こういう闇市とか水上店舗は文化財とも少し違う。例えば野毛都橋商店街ビルは2016年に、横浜市独自の歴史的建造物に戦後建築として初めて登録されています。市が価値を認めて独自に補助する制度であり、結構メリットがある。本当はまちの中で生きてきた資産のような形で、指定文化財のように必ずしも現状を固定するのではなく、価値があって公共性にも寄与してるという名目で、文化財とは違う枠組みで補助が出せるような制度があるといいなと、こういう闇市由来の建築を見てると思うんです」と願いを語り、イベントを締め括りました。